『移築再生はこうして行われた』 ■ 高久酒造酒蔵
結の蔵は元々秋田県湯沢市の銘酒「小野之里」で著名な高久(たかく)酒造
の酒蔵であった。移築前の蔵から発見された棟札には明治21年と記されて
おり大正14年の湯沢市大火や地震・風雪に1世紀以上耐えてきた蔵である。
2尺(60cm)間隔に並んだ5寸5分(17cm)角の栗や桧の柱、長さが10間
(18m)もある1本物の杉丸太の棟木など構造は雄大であり状態も良かった。
さらに大火から蔵を守った厚さ1尺(30cm)の土壁や3か所の巨大な戸前
(蔵戸)の仕上げも見事であった。座敷になっていた部分に使われていた
総漆塗りの格子戸も精緻なデザインで魅力的だった。

高久酒造製「小野の里」ラベル
■ 蔵との出会い
高久酒造現当主の高久正吉氏は、蔵の周りにビルが立ち並び、蔵を存続する為の周辺環境が悪くなった事から、蔵の解体を決意した。しかし貴重な蔵を廃棄するのは忍びなく、山形県羽黒町で民家再生を手掛ける渡部喜美雄氏に相談した。渡部氏は民家再生リサイクル協会を通して貰い手を探し始めた。話を聞いた会員のO設計室大沢は、以前から鎌倉市に蔵を移築し賃貸住宅を作る事を希望していた会員の田中芳郎氏に連絡して早速湯沢市へ赴いた。2人は一目でこの蔵の素晴らしさに感動し、渡部氏を介して高久氏と交渉し、引渡し契約が結ばれた。
■ 調査から解体へ
平成14年末からO設計室によって再生計画が始まり翌15年2月に蔵の詳細調査を行った。この調査により改めて酒蔵の構造の雄大さ、部材の状態の良さを再確認した。4月中旬から解体工事が始まり5月連休にはJMRA主催の「解体ワークショップ」を開催した。東北、関東から参加した52人がツルハシを手に壁、屋根の土と格闘した。併せて戸前(蔵の扉)の解体も実施し、壁・戸前の構造を知る良い機会となった。解体終了後、18mの棟木と戸前の搬出は人通りの少ない朝方に行った。戸前は柱につけたまま梱包して取外し、総重量は4.3tであった。解体工事は5月末に完了し、搬出された基礎の石や木材、土は山形県余目町に運ばれ再生の時を待つことになった。

「解体ワークショップ」

土が落ちた正面
■ 着工と部材の輸送
平成16年春に地鎮祭、基礎工事が行われ、山形では木材の加工に取り掛かった。部材の輸送、特に18mの長さの棟木と幅3.6mの戸前(正面の扉)の運搬については当初から難題が予想された。担当した山形県の運送会社は鎌倉に出向き道路事情を視察し輸送計画を立てた。4月19日夕方、木材は大型車3台に積まれ一般国道経由で翌日早朝に鎌倉のストックヤードに到着した。棟木は22日早朝、棟上げ前の現場に搬入。戸前は同じ日にトレーラーで山形県を出発し翌日鎌倉に到着した。4月28日早朝4時、戸前を現場に搬入。クレーン車で建て方の進んでいる蔵の正面へ下ろされた。ピタリと収まり一同胸をなでおろした。

現場に搬入された18mの棟木
■ 上棟
20tクレーンに吊り上げられた長さ18mの棟木は無事に屋根の頂上に載り、文字通り上棟した。平成16年5月19日吉日。棟上げ式は移築を担当した渡部工業の地元である庄内地方の形式で執り行われた。このような伝統的な棟上げ式は鎌倉でも珍しく、地元ケーブルテレビの取材を受けながらの式典となった。棟を玄翁で叩く音や屋根から投げる餅を受ける人々の歓声が新緑の鎌倉市扇ガ谷に響き渡った。

上棟式祭壇の棟札
■土壁工事とワークショップ
鎌倉の斎藤建設にバトンタッチされた再生工事は屋根、外部木工事の後、湯河原市の長田左官による土壁工事に引き継がれた。その間前年11月に実施した「竹刈りワークショップ」で刈り取った真竹を藁縄で結び、そこに泥団子を付ける「竹小舞かき・土壁ワークショップ」を6月に実施した。その泥は前年の9月に藤沢市で実施した「土練りワークショップ」で多くの人達が文字通り“手と足”で練り上げた土である。1世紀以上前の土がこうして新たな命を得たのである。

団子付けワークショップ
■落成式
再生工事はその後内部の造作、設備関係の配管配線と進んだ。一方左官工事は平行して内部の土壁仕上げ、外部の漆喰仕上げと進んでいった。元の蔵の外壁は土壁であったが再生では腰が下見板張り、上部を漆喰塗りとした。艶やかに光る白い漆喰壁の仕上げが終わり、足場が無くなると蔵は元々この地にあったかのように落ち着いた風情となった。
平成16年11月末、再生工事は一部の残工事を残して完成。落成式には秋田県から元の持ち主である高久氏も列席して盛大に行われた。「立派に再生されて先祖に申し訳が立った」と挨拶する高久氏の言葉が印象的であった。

元の棟札を持つ高久氏

完成した2階の天井

正面外観